「栄光の明治、破滅の昭和」─司馬遼太郎もまた戦後を生きた「時代の申し子」!? [国際・政治情勢]
「「栄光の明治、破滅の昭和」─司馬もまた戦後を生きた「時代の申し子」だった
『坂の上の雲』と東京裁判史観との奇妙な符合
(SAPIO 2009年11月11日号掲載) 2009年11月26日(木)配信
文=福井雄三(大阪青山短大准教授)
「司馬史観」なる言葉がある。司馬が国民的作家になるにつれ、歴史に対する司馬の基本的な見方が周囲によってそう名付けられた。「司馬史観」を初めて本格的に批判し、それに関する著書もある大阪青山短大准教授の福井雄三氏は次のように問題提起する。
司馬遼太郎の作品に果たして「史観」などというものがあるのかどうか。「司馬史観」ともっともらしく言われるが、歴史の専門家の立場から言えば、実際は単なるテレビドラマや時代劇映画と同レベルに属するものである。だが『坂の上の雲』は、明治という時代に生きた人物群像の列伝であると同時に、政治・外交・戦争といったテーマに触れながら、日本という国家のあり方そのものを論じた国家論でもある。
その作品がこの秋から3年間にわたってNHKでドラマ化されるのだから、その影響は無視できぬほど大きなものとなるだろう。
<「司馬史観」の核心 「明治の栄光、昭和の破滅」>
「司馬史観」の核心をなすのは「明治の栄光と昭和の破滅」という善悪二元論である。日露戦争の勝利を頂点とする明治は栄光に満ちていた。しかし、昭和に入ってからの日本は破滅への道を突き進み、その背景には硬直した官僚制・技術と科学の軽視・非合理な精神主義・内容の空虚な権威主義などが満ちていた。
このような「司馬史観」の根底には、日露戦争は祖国防衛戦争だったが、大東亜戦争は侵略戦争だった、とみなす彼の立場がある。
実際、司馬は『坂の上の雲』の「あとがき」において、日露戦争を〈国民の心情においてはたしかに祖国防衛戦争〉(単行本第五巻)と正当化しながら、一方で昭和前期については〈滑稽すぎるほどの神秘的国家観や、あるいはそこから発想されて瀆武の行為をくりかえし、結局は日本とアジアに十五年戦争の不幸をもたらした〉(単行本第六巻)と規定している。
また、物語の進行の合間、合間にナレーションのように歴史解釈を挟んでいるが、そこでも例えば〈昭和十年代の軍事国家としての日本は、軍閥が天皇の権威をかりて日本を支配し、あたかもかれらが日本人の居住地であるこの国を占領したかのような意識の匂いをもった。当然、国民はかれらの使用人になり、末期には奴隷のようになった〉(単行本第三巻の「黄塵」)と、厳しく昭和前期のあり方を批判している。
これはまさしく、戦前の日本を全否定し、日本人に罪の意識を植えつけようとした東京裁判史観に通じるものである。
司馬は敗色濃厚となった大東亜戦争末期に学徒兵として応召し、ソ満(ソ連と満州国)国境近くの戦車第一連隊に配属され、その後内地へ移され、22歳のときに敗戦を迎えた。祖国が焦土と化したとき、司馬の頭の中にとりついたのは「日本民族をこのような破滅に追い込んだ原因は何か」という疑問だった。青年司馬が味わったこの原体験は終生離れることのない一つの謎となって影のようにつきまとい、生涯をかけて謎の解明に向かわせた。
司馬の辿った彼自身のこのような精神の軌跡が、東京裁判史観と奇妙な符合を示すのを、われわれは『坂の上の雲』の中にしばしば目にする。これは果たして偶然であろうか。
<司馬が史実と異なる 「物語」を創作した理由>
『坂の上の雲』の中のクライマックスはいくつかあるが、最大のハイライトは日露戦争における旅順攻防戦である。
旅順攻防戦とは、ロシアの太平洋艦隊の母港である遼東半島先端の旅順を巡り、ロシア軍と日本の満州軍が繰り広げた陸戦で、日露戦争の帰趨を大きく左右した。なかでも旅順港を見晴らす「203高地」を巡る攻防が重要な鍵を握っていた。明治37年(1904年)8月19日に始まり、翌年1月1日にロシア軍が降伏した。
司馬は、旅順攻略を担当した満州軍第三軍司令官の乃木希典と参謀長の伊地知幸介を馬鹿の骨頂のごとくにこきおろし、満州軍総参謀長の児玉源太郎を神のごとく賛美している。具体的に言えば、満州軍はロシア軍に対して3回の総攻撃を行なったが、その3回目の総攻撃が失敗した直後に、児玉が総司令部から第三軍に乗り込んできて一時的に乃木の指揮権を代行し、すべて彼の命令通りに作戦を変更して戦ったところ、わずか1週間で203高地が陥ちてしまったこのように司馬は、児玉の手口はまるで魔法か手品を使ったかのように鮮やかだった、と書く。
だが、これなどは司馬の思い込みと想像力で脚色したまったくのフィクションである。史実に即して言えば、児玉が旅順に乗り込んできたときには、第三軍が203高地を攻撃している真っ最中であり、彼はただ督励に赴いたに過ぎない。児玉が旅順に来ようが来まいが、203高地は第三軍の所定の作戦通りに陥ちていたはずである。児玉の助言で行なわれた戦術変換は全体のごく一部に過ぎず、しかも作戦の大局から見ればほとんど影響のないものである。
児玉が機略縦横の天才的頭脳を持った人物であり、当代随一の作戦家であったことは紛れもない事実だ。しかし私は、旅順攻防戦の成功面はすべて児玉のおかげであり、失敗面はすべて乃木と伊地知のせいである、などとは思わない。乃木を児玉のような智将だったとは思わぬが、さりとて愚将だったとは思わぬ。
ではなぜ、司馬は乃木や伊地知を無能に描き、ことさらその失敗を強調するような描き方をしたのか。実はこの場面の描写は、単なる戦闘の熾烈さや満州軍が被った戦死者1万人以上という犠牲の膨大さといった次元を通り越して、日本の近現代史における司馬の軍部批判、国家批判の伏線をなしている。
多少なりとも近現代史の知識を持つ読者は、『坂の上の雲』を読み終えて、次のような暗澹とした連想が生じてくるのを、おぼろげながらも予感するであろう。日露戦争勝利後の日本が旅順攻防戦の愚劣さを直視せず、これを教訓とすることなく、うやむやにごまかしてしまったことが、その後のノモンハン事件と昭和の破滅をもたらしたものだ、と。実際、司馬は作中で、日露戦争後に軍によって編まれた戦史が失敗面を覆い隠している、と批判している。
ノモンハン事件とは、昭和14年(1939年)、満蒙(満州国とモンゴル人民共和国)国境地帯のノモンハンで日本陸軍がソ連の圧倒的に優れた機械化部隊と戦って完敗した、とされる出来事である。精神主義に凝り固まって科学技術を軽視していた昭和の日本軍部の愚かしさや満州事変以降の関東軍の暴走の典型的な例であり、昭和に入ってから日本という国家が辿った破滅への軌跡を象徴する、と一般的には解釈されてきた。
司馬が『坂の上の雲』を完成させた後、その延長線上に最後のライフワークとしてノモンハンを書こうとしていたことはよく知られている。完成を見ることなく亡くなったが、「日本民族を破滅に追い込んだ原因」の追求を生涯のテーマとした司馬にとって、ノモンハンこそ究極のテーマだったのである。そして司馬もまた、ノモンハン事件を日本軍の完敗と見なしていた。
だが、ソ連崩壊後の情報公開と最新の研究により、ノモンハン事件は実は日本軍の大勝利だったことが徐々に明らかになりつつある。
<結果を前提とした 世界的視野のない歴史観>
司馬の歴史観の特徴は、結果を前提とした歴史認識である。「日本は日清日露戦争に勝った。だから明治の日本は正しい。日本は大東亜戦争に負けた。だから昭和の日本は間違いである」式の発想である。つまり最初に結論ありきで、ある一つの決まった結果・結論をもとに、過去の歴史を裁いているのである。だが、歴史はそれほど単純に一刀両断できるものではない。
もう一つの特徴は、日本という国家の枠組みの中に視座が限定されて、世界史的な座標軸の視座から客観的に眺める姿勢が欠落していることだ。小さなコップの中で水が波たち騒ぐように、彼の思考回路は日本という座標軸の中でのみ旋回し、空回りしているのである。
だが戦争は一国のみでできるものではない。他国との関わりあいの中で初めて起こるものである。昭和前期の日本は世界情勢と無関係に、突然、自ら「侵略国家」になったわけではない。
司馬が大作家であり、数多くの手に汗握る面白い小説を書き残したことは事実であり、『坂の上の雲』も実に素晴らしい傑作である。日露戦争の時代をわれわれ日本人がいかに雄々しく生きたか。その父祖の足跡を辿ることによって、多くの人々が誇りと勇気を取り戻し、日本の全歴史を否定するコミンテルン史観・階級闘争史観・自虐史観からは脱却できたかもしれない。
だがこれは諸刃の剣なのである。「明治の栄光と昭和の破滅」すなわち日清日露戦争まではよかったが大東亜戦争は駄目だ、という善悪二元論の立て方により、今度は東京裁判史観の術中にはまってしまうのだ。
近現代史に関する専門的知識を多少なりとも備えている者は、このような矛盾・誤謬にすぐ気づく。だが一般の読者はそこまで注意しながら司馬の作品を読むことはないので、まるで講談を聞いているような心地よい彼の語り口に、いともやすやすと誘導されてしまうのだ。これは危険なことである。
「司馬史観」というのは、東京裁判史観の掌の上で踊らされていたのだ、ということをあらためて思わずにはいられない。司馬遼太郎もまた、東京裁判史観を精神的拠り所として戦後を生きた「時代の子」だったのである。」
私も司馬遼太郎氏のファンである。殊に『坂の上の雲』は大好きな作品の一つである。彼の主張する40年周期で、日本は興隆と没落を繰り返すという意見にも『成程』と感心していた。そして、明治時代の日本は『立派』であり、日露戦争以降、特に昭和の日本は『暗愚』であったという意見にも賛同していた。しかし、近年、冷戦の終結と旧ソ連の崩壊によって、スターリン時代の旧ソ連の機密文書が公開されるにつれ、本当に日露戦争以後、昭和の日本は悪くなる一方だったのかということに疑問を持ち始めた。それまでは、司馬氏自身が、徴兵されていた戦争体験者である為、安易に彼の主張を受け入れていたのだが、旧ソ連の機密文書に出てくる世界規模のコミンテルンの謀略や司馬氏が批判していたノモンハン事件が、実は、戦略的にはともかく、戦術的には、日本軍の圧勝だったことを知るにつけ、司馬氏の主張を懐疑的に受け止めるようになった。日露戦争以後、日本は悪くなる一方だったと司馬氏は主張し、大東亜戦争の敗北が、その結論のように語るが、彼は、日露戦争と大東亜戦争の間に、世界的な大事件である第一次世界大戦とロシア革命があったことを指摘していない。彼は、『坂の上の雲』で、日露戦争に出てくる旅順攻略の第三軍の乃木将軍とその幕僚を敵の機関銃に対し、歩兵による突撃ばかり繰り返し、犠牲を増やすばかりで、前線の視察もしない無能な集団の如く描き、その教訓が生かされず、後の大東亜戦争の日本軍の大敗北を招く原因となったかのように語っているが、史実はどうやら違うようである。『司馬史観』は、上記の記事の如く、明治時代の戦争は勝利したから明治時代の日本は良かったが、昭和時代の戦争は大敗北したから昭和時代の日本は悪かったというやはり戦後の『東京裁判史観』に汚染された『史観』であったと言えよう。
『坂の上の雲』と東京裁判史観との奇妙な符合
(SAPIO 2009年11月11日号掲載) 2009年11月26日(木)配信
文=福井雄三(大阪青山短大准教授)
「司馬史観」なる言葉がある。司馬が国民的作家になるにつれ、歴史に対する司馬の基本的な見方が周囲によってそう名付けられた。「司馬史観」を初めて本格的に批判し、それに関する著書もある大阪青山短大准教授の福井雄三氏は次のように問題提起する。
司馬遼太郎の作品に果たして「史観」などというものがあるのかどうか。「司馬史観」ともっともらしく言われるが、歴史の専門家の立場から言えば、実際は単なるテレビドラマや時代劇映画と同レベルに属するものである。だが『坂の上の雲』は、明治という時代に生きた人物群像の列伝であると同時に、政治・外交・戦争といったテーマに触れながら、日本という国家のあり方そのものを論じた国家論でもある。
その作品がこの秋から3年間にわたってNHKでドラマ化されるのだから、その影響は無視できぬほど大きなものとなるだろう。
<「司馬史観」の核心 「明治の栄光、昭和の破滅」>
「司馬史観」の核心をなすのは「明治の栄光と昭和の破滅」という善悪二元論である。日露戦争の勝利を頂点とする明治は栄光に満ちていた。しかし、昭和に入ってからの日本は破滅への道を突き進み、その背景には硬直した官僚制・技術と科学の軽視・非合理な精神主義・内容の空虚な権威主義などが満ちていた。
このような「司馬史観」の根底には、日露戦争は祖国防衛戦争だったが、大東亜戦争は侵略戦争だった、とみなす彼の立場がある。
実際、司馬は『坂の上の雲』の「あとがき」において、日露戦争を〈国民の心情においてはたしかに祖国防衛戦争〉(単行本第五巻)と正当化しながら、一方で昭和前期については〈滑稽すぎるほどの神秘的国家観や、あるいはそこから発想されて瀆武の行為をくりかえし、結局は日本とアジアに十五年戦争の不幸をもたらした〉(単行本第六巻)と規定している。
また、物語の進行の合間、合間にナレーションのように歴史解釈を挟んでいるが、そこでも例えば〈昭和十年代の軍事国家としての日本は、軍閥が天皇の権威をかりて日本を支配し、あたかもかれらが日本人の居住地であるこの国を占領したかのような意識の匂いをもった。当然、国民はかれらの使用人になり、末期には奴隷のようになった〉(単行本第三巻の「黄塵」)と、厳しく昭和前期のあり方を批判している。
これはまさしく、戦前の日本を全否定し、日本人に罪の意識を植えつけようとした東京裁判史観に通じるものである。
司馬は敗色濃厚となった大東亜戦争末期に学徒兵として応召し、ソ満(ソ連と満州国)国境近くの戦車第一連隊に配属され、その後内地へ移され、22歳のときに敗戦を迎えた。祖国が焦土と化したとき、司馬の頭の中にとりついたのは「日本民族をこのような破滅に追い込んだ原因は何か」という疑問だった。青年司馬が味わったこの原体験は終生離れることのない一つの謎となって影のようにつきまとい、生涯をかけて謎の解明に向かわせた。
司馬の辿った彼自身のこのような精神の軌跡が、東京裁判史観と奇妙な符合を示すのを、われわれは『坂の上の雲』の中にしばしば目にする。これは果たして偶然であろうか。
<司馬が史実と異なる 「物語」を創作した理由>
『坂の上の雲』の中のクライマックスはいくつかあるが、最大のハイライトは日露戦争における旅順攻防戦である。
旅順攻防戦とは、ロシアの太平洋艦隊の母港である遼東半島先端の旅順を巡り、ロシア軍と日本の満州軍が繰り広げた陸戦で、日露戦争の帰趨を大きく左右した。なかでも旅順港を見晴らす「203高地」を巡る攻防が重要な鍵を握っていた。明治37年(1904年)8月19日に始まり、翌年1月1日にロシア軍が降伏した。
司馬は、旅順攻略を担当した満州軍第三軍司令官の乃木希典と参謀長の伊地知幸介を馬鹿の骨頂のごとくにこきおろし、満州軍総参謀長の児玉源太郎を神のごとく賛美している。具体的に言えば、満州軍はロシア軍に対して3回の総攻撃を行なったが、その3回目の総攻撃が失敗した直後に、児玉が総司令部から第三軍に乗り込んできて一時的に乃木の指揮権を代行し、すべて彼の命令通りに作戦を変更して戦ったところ、わずか1週間で203高地が陥ちてしまったこのように司馬は、児玉の手口はまるで魔法か手品を使ったかのように鮮やかだった、と書く。
だが、これなどは司馬の思い込みと想像力で脚色したまったくのフィクションである。史実に即して言えば、児玉が旅順に乗り込んできたときには、第三軍が203高地を攻撃している真っ最中であり、彼はただ督励に赴いたに過ぎない。児玉が旅順に来ようが来まいが、203高地は第三軍の所定の作戦通りに陥ちていたはずである。児玉の助言で行なわれた戦術変換は全体のごく一部に過ぎず、しかも作戦の大局から見ればほとんど影響のないものである。
児玉が機略縦横の天才的頭脳を持った人物であり、当代随一の作戦家であったことは紛れもない事実だ。しかし私は、旅順攻防戦の成功面はすべて児玉のおかげであり、失敗面はすべて乃木と伊地知のせいである、などとは思わない。乃木を児玉のような智将だったとは思わぬが、さりとて愚将だったとは思わぬ。
ではなぜ、司馬は乃木や伊地知を無能に描き、ことさらその失敗を強調するような描き方をしたのか。実はこの場面の描写は、単なる戦闘の熾烈さや満州軍が被った戦死者1万人以上という犠牲の膨大さといった次元を通り越して、日本の近現代史における司馬の軍部批判、国家批判の伏線をなしている。
多少なりとも近現代史の知識を持つ読者は、『坂の上の雲』を読み終えて、次のような暗澹とした連想が生じてくるのを、おぼろげながらも予感するであろう。日露戦争勝利後の日本が旅順攻防戦の愚劣さを直視せず、これを教訓とすることなく、うやむやにごまかしてしまったことが、その後のノモンハン事件と昭和の破滅をもたらしたものだ、と。実際、司馬は作中で、日露戦争後に軍によって編まれた戦史が失敗面を覆い隠している、と批判している。
ノモンハン事件とは、昭和14年(1939年)、満蒙(満州国とモンゴル人民共和国)国境地帯のノモンハンで日本陸軍がソ連の圧倒的に優れた機械化部隊と戦って完敗した、とされる出来事である。精神主義に凝り固まって科学技術を軽視していた昭和の日本軍部の愚かしさや満州事変以降の関東軍の暴走の典型的な例であり、昭和に入ってから日本という国家が辿った破滅への軌跡を象徴する、と一般的には解釈されてきた。
司馬が『坂の上の雲』を完成させた後、その延長線上に最後のライフワークとしてノモンハンを書こうとしていたことはよく知られている。完成を見ることなく亡くなったが、「日本民族を破滅に追い込んだ原因」の追求を生涯のテーマとした司馬にとって、ノモンハンこそ究極のテーマだったのである。そして司馬もまた、ノモンハン事件を日本軍の完敗と見なしていた。
だが、ソ連崩壊後の情報公開と最新の研究により、ノモンハン事件は実は日本軍の大勝利だったことが徐々に明らかになりつつある。
<結果を前提とした 世界的視野のない歴史観>
司馬の歴史観の特徴は、結果を前提とした歴史認識である。「日本は日清日露戦争に勝った。だから明治の日本は正しい。日本は大東亜戦争に負けた。だから昭和の日本は間違いである」式の発想である。つまり最初に結論ありきで、ある一つの決まった結果・結論をもとに、過去の歴史を裁いているのである。だが、歴史はそれほど単純に一刀両断できるものではない。
もう一つの特徴は、日本という国家の枠組みの中に視座が限定されて、世界史的な座標軸の視座から客観的に眺める姿勢が欠落していることだ。小さなコップの中で水が波たち騒ぐように、彼の思考回路は日本という座標軸の中でのみ旋回し、空回りしているのである。
だが戦争は一国のみでできるものではない。他国との関わりあいの中で初めて起こるものである。昭和前期の日本は世界情勢と無関係に、突然、自ら「侵略国家」になったわけではない。
司馬が大作家であり、数多くの手に汗握る面白い小説を書き残したことは事実であり、『坂の上の雲』も実に素晴らしい傑作である。日露戦争の時代をわれわれ日本人がいかに雄々しく生きたか。その父祖の足跡を辿ることによって、多くの人々が誇りと勇気を取り戻し、日本の全歴史を否定するコミンテルン史観・階級闘争史観・自虐史観からは脱却できたかもしれない。
だがこれは諸刃の剣なのである。「明治の栄光と昭和の破滅」すなわち日清日露戦争まではよかったが大東亜戦争は駄目だ、という善悪二元論の立て方により、今度は東京裁判史観の術中にはまってしまうのだ。
近現代史に関する専門的知識を多少なりとも備えている者は、このような矛盾・誤謬にすぐ気づく。だが一般の読者はそこまで注意しながら司馬の作品を読むことはないので、まるで講談を聞いているような心地よい彼の語り口に、いともやすやすと誘導されてしまうのだ。これは危険なことである。
「司馬史観」というのは、東京裁判史観の掌の上で踊らされていたのだ、ということをあらためて思わずにはいられない。司馬遼太郎もまた、東京裁判史観を精神的拠り所として戦後を生きた「時代の子」だったのである。」
私も司馬遼太郎氏のファンである。殊に『坂の上の雲』は大好きな作品の一つである。彼の主張する40年周期で、日本は興隆と没落を繰り返すという意見にも『成程』と感心していた。そして、明治時代の日本は『立派』であり、日露戦争以降、特に昭和の日本は『暗愚』であったという意見にも賛同していた。しかし、近年、冷戦の終結と旧ソ連の崩壊によって、スターリン時代の旧ソ連の機密文書が公開されるにつれ、本当に日露戦争以後、昭和の日本は悪くなる一方だったのかということに疑問を持ち始めた。それまでは、司馬氏自身が、徴兵されていた戦争体験者である為、安易に彼の主張を受け入れていたのだが、旧ソ連の機密文書に出てくる世界規模のコミンテルンの謀略や司馬氏が批判していたノモンハン事件が、実は、戦略的にはともかく、戦術的には、日本軍の圧勝だったことを知るにつけ、司馬氏の主張を懐疑的に受け止めるようになった。日露戦争以後、日本は悪くなる一方だったと司馬氏は主張し、大東亜戦争の敗北が、その結論のように語るが、彼は、日露戦争と大東亜戦争の間に、世界的な大事件である第一次世界大戦とロシア革命があったことを指摘していない。彼は、『坂の上の雲』で、日露戦争に出てくる旅順攻略の第三軍の乃木将軍とその幕僚を敵の機関銃に対し、歩兵による突撃ばかり繰り返し、犠牲を増やすばかりで、前線の視察もしない無能な集団の如く描き、その教訓が生かされず、後の大東亜戦争の日本軍の大敗北を招く原因となったかのように語っているが、史実はどうやら違うようである。『司馬史観』は、上記の記事の如く、明治時代の戦争は勝利したから明治時代の日本は良かったが、昭和時代の戦争は大敗北したから昭和時代の日本は悪かったというやはり戦後の『東京裁判史観』に汚染された『史観』であったと言えよう。
旅順攻防戦の真実―乃木司令部は無能ではなかった (PHP文庫)
- 作者: 別宮 暖朗
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2006/05
- メディア: 文庫
ノモンハン戦車戦―ロシアの発掘資料から検証するソ連軍対関東軍の封印された戦い (独ソ戦車戦シリーズ)
- 作者: マクシム コロミーエツ
- 出版社/メーカー: 大日本絵画
- 発売日: 2005/06
- メディア: 単行本
タグ:国際・政治情勢
司馬遼太郎の小説はよく読みました。
中でも「坂の上の雲」はとても好きな作品です。
でも、池波正太郎などを読むようになってから、
司馬さんの小説が、“いい意味で青臭く”感じるようになりました。
gaiagear さんの文を読んで、
その単純な“善悪二元論”が青臭さの要因かな~などと考えました。
by 桔梗之介 (2009-11-27 14:19)
桔梗之介さん、nice!&ご訪問&コメントどうも有難う御座います。
私も司馬さんのファンではありますが、歴史小説だから仕方がないとはいえ、恰も作品の叙述の中に史実のようにコメントを入れながら、実は、史実と反している箇所が多々見られるのが、最近とても気になっています。虚構なら虚構であるとはっきりしてくれないと誤解を招きますよね。
by gaiagear (2009-11-27 22:36)