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今そこにある危機(48) [国際・政治情勢]

杉原千畝 ヒューマニズムだけではなかった「情報士官」としてのユダヤ難民救済=手嶋龍一

(SAPIO 2009年8月19・26日号掲載) 2009年8月31日(月)配信

文=手嶋龍一(外交ジャーナリスト・作家)

「命のビザ」を独断で発給し、6000人を超えるユダヤ難民を救ったヒューマニスト杉原千畝。戦後は永くこんな杉原像がメディアによって語られてきた。確かに杉原に救われたユダヤ難民は、シベリア鉄道を経て、ウラジオストクに至り、やがて日本の土を踏んだ。そして上海の租界やアメリカに脱出していった。ひとりの日本人外交官が「幾多のスギハラ・サバイバル(生存者)」を送り出したことは紛れもない事実だ。だが、杉原千畝を人道主義によって行動した〝日本のシンドラー〟と見るだけではその素顔が歴史の闇に隠れてしまう。

 誤解のないように冒頭で断わっておくが、杉原の凛とした行動に異を唱えているのではない。イスラエル政府は戦後、人道に果たした功績を称える勲章を杉原に贈っている。これは、彼が試練の中で類稀な勇気を示したことを物語るものだ。

 だが、杉原千畝が人道主義だけに拠ってあれほど大量のビザを発給したわけではない。彼はドイツとソ連(当時)という大国の狭間にあった小国リトアニアに駐在していた日本の外交官であり、より本質的には優れたインテリジェンス・オフィサーであった。杉原は独自の情報網を戦時下の欧州に築き上げていく過程で、周到な判断のもとで大量のビザを発給し、ユダヤ難民を極東に逃がしたのだった。

 この間のいきさつを知るため当時の欧州情勢を概観してみよう。1939年夏から1940年夏にかけてのヨーロッパ情勢ほど複雑奇怪なものはない。ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が始まるわずか10日前、ヒトラーのドイツは、あろうことか宿敵スターリンと独ソ不可侵条約を電撃的に締結。1939年8月23日のことだった。それは極東の日本にも衝撃を与えずにはおかなかった。ナチス・ドイツは、日本がもっとも頼りにしていた同盟国であり、一方のソ連は、その年の5月に満蒙国境線でノモンハン戦争を戦った主敵だった。ナチス・ドイツは同盟国日本には一切の相談なくソ連と手を結んでしまう。

 当時の平沼騏一郎首相は「欧州情勢は複雑怪奇なり」と内閣を放り出した。日本は欧州情勢を読み解く羅針盤を失って迷走していたのである。従来のドイツ一辺倒の情報では、複雑なヨーロッパ情勢を読み切れなくなっていたのである。

 この独ソの電撃的な接近以前から、外務省や陸軍参謀本部は、欧州情勢、とりわけソ連情勢を精緻につかむ必要を痛感していた。そうしたなか、ソ連通の杉原千畝が起用された。外務省は、参謀本部の強い求めもあって、杉原をモスクワの日本大使館に送り込もうとした。だが、ソ連側の強硬な拒絶にあって、頓挫してしまう。スターリン治下のソ連でも極めて異例の出来事だった。杉原はかつてハルビンの日本総領事館にあって対ロ情報の収集にあたり、最初の妻も亡命ロシア人だった。その後、杉原は満州国外交部に移ってロシア課長となり、鉄道の帰属をめぐる交渉で辣腕を振るった。ソ連の外交・情報当局は、杉原をもっとも警戒すべきインテリジェンス・オフィサーと見て、モスクワへの赴任を認めようとしなかったのだ。

 このため日本政府は、杉原をフィンランドの日本公使館に送りこみ、対ソ情報の収集にあたらせた。さらに1939年の7月にバルト3国の1つ、リトアニアの首都カウナスに領事館領事代理として赴かせた。杉原一家がカウナスに到着したのは、独ソ不可侵条約が結ばれた5日後だった。

 当時のリトアニアは、南にポーランド、南西にソ連と国境を接し、からくも独立を保っていた。しかし、独ソ不可侵条約が締結された際、両国は秘密議定書を取り交わし、独ソでポーランドを分割し、バルト3国をソ連の支配下に置くことを取り決めていた。独立国リトアニアはソ連の支配下に組み入れられるまでのわずかな間に、杉原を領事代理として迎え入れたのだった。

<ユダヤ・コネクションからインテリジェンスを入手>

 1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻。9月17日にはソ連も侵攻を開始し、10月にはドイツ軍とソ連軍がポーランド全域を制圧した。占領下に置かれたポーランドからは、迫害を恐れたユダヤ人難民が国外へ逃亡をはじめる。在リトアニアの日本領事館にも通過ビザを求めてユダヤ人が殺到した。外務省はビザ発給の条件として、「行き先国の入国許可手続きの完了」と「十分な旅費、及び滞在費の所持」などを定めていた。だが、杉原は形式通り、本国に指示を仰いだのだが、本国からの訓令は「規則の通りに」というものだった。杉原は独自の判断でユダヤ人にビザを大量に発給する。

 当時の杉原の最重要の任務は、独ソ関係に関する情報の収集であり、ビザの発給はその助けになると冷静に読んでいたのだろう。実際に彼の助手を務めていたのは、ポーランド陸軍の情報機関が送り込んだ要員であり、ユダヤ系のポーランド人だった。こうした欧州のユダヤ・コネクションを通じて、不可侵条約を結ぶドイツとソ連も、やがて独ソ戦に突入していくと怜悧に見立てていたのである。杉原はこうした一級のインテリジェンスを刻々と日本に伝えていった。

 カウナスのインテリジェンス・オフィサー、杉原にとって、ユダヤ人へのビザの発給は情報収集と表裏の関係にあった。だが、情報の世界に携わった者は一切を語らない。杉原が築き上げたユダヤ・コネクションがいかなるものだったか、杉原は生涯沈黙を守り続けて1986年夏に逝った。しかし、当時、中立国スウェーデンのストックホルムに在勤していた小野寺信武官の妻、百合子が、戦後に書いた『バルト海のほとりにて』にその一端が描かれている。杉原が築いたユダヤ・コネクションが後に重大なインテリジェンスをもたらしたことが窺える。ソ連の対日参戦を約束した「ヤルタ密約」がそれだった。だが、皮肉なことに、その最重要情報は電信上のミスか、それとも参謀本部が意図的に握りつぶしたのか、政府の中枢には遂に届かなかった。

 杉原がユダヤ難民を救うため大量に発給した「命のビザ」は、欧州の全域に広がる亡命ポーランド政府内のユダヤ・コネクションから重要なインテリジェンスを吸い上げる決め手になっていた。そう断じてもヒューマニスト杉原千畝の尊厳は少しも揺るぐまい。それどころか、戦後、執拗に繰り返された杉原への心ない非難への有力な反証となるはずだ。

「杉原がビザを大量に発給したのは、豊かなユダヤ人から金を受け取っていたためだ」

「杉原はユダヤ資本を満州国に引き入れるための国策に従ったに過ぎない」

 こうした中傷には根拠がない。筆者は生前の小野寺百合子に「駐在武官に委ねられていた機密費はどれほどだったのですか」と直接尋ねたことがあった。「現在の貨幣価値に換算すると年に少なくとも30億~40億円でしょう」と話してくれた。外交官に裁量を任された機密費はこれとは異なるが、ユダヤ難民からビザの見返りに金を受け取ることなど全く意味がないことは頷けよう。また「河豚計画」といわれる、ユダヤ資本を満州の開発に導入する計画と「杉原ビザ」は何ら関係していない。やはり杉原は外務省の実務的な判断を超えて大量のビザ発給に踏み切ったのだった。

 ひとりの日本人外交官によって命を救われたユダヤ難民は、戦後、世界のあらゆる分野で活躍している。その道を信念をもって拓いた杉原千畝は、不世出のインテリジェンス・オフィサーの名とともに、永く歴史に刻まれていくだろう。

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