今そこにある危機(45) [国際・政治情勢]
95年前のトルコ難破船救助、69年前のユダヤ難民救済、そして今は……
世界から感謝される「人情の日本史」=四條たか子
(SAPIO 2009年7月8日号掲載) 2009年7月20日(月)配信
文=四條たか子(『世界が愛した日本』著者)
私たちは知っていただろうか。100年も前に日本から受けた恩を忘れずにいてくれる世界の国々のことを。そして、当時の日本人が一体どんな行動を示したのかを。日本の教科書には決して書かれない「善意の連鎖」を生んだ歴史を紹介しよう。
<95年前の日本の恩義を忘れなかったトルコ国民>
日本の「外交下手」を象徴するエピソードとして、湾岸戦争時に多国籍軍に総額135億ドルを出資しながら、まったく感謝されなかったという事実がある。
1990年8月から翌年1月にかけて10・10・20・90億ドルと小出しにし、為替相場の変動で目減りしたという理由で5億ドルを追加した顚末は、まさにその場しのぎ。これは冷戦後の外交戦略を描けていなかったというだけでなく、情報収集能力も状況判断力も、学習能力もないことを露呈した一例だ。
というのもこの戦争から遡ること5年、イラン・イラク戦争時にも、日本は情報不足と判断力の欠如から、多くの邦人がイラクに取り残されるという事態に陥った。そのとき自国民の脱出よりも日本人の救出を優先し、飛行機を飛ばしてくれたのがトルコだ。
いったいなぜ? その理由を知る日本人は1人もいなかった。しかしトルコの人たちは忘れてはいなかった。95年も前に熊野灘(和歌山県串本町沖)で難破したトルコの軍艦エルトゥールル号の生存者を救出し、故国に送り届けてくれた日本への感謝。それはトルコ国内では長く教科書で語り継がれて、タイムリミットギリギリの救出劇を生んだ。
ところがこの事実は日本ではすっかり風化し、忘れ去られていた。それどころか、トルコの行為は日本の経済協力を期待したものという論調が大勢を占めたのである。
<イスラエルの好日感情を支える「日本のシンドラー」>
日本も日本人も、実はけっこうやるじゃないか。そんなエピソードはいくつもある。たとえば「日本のシンドラー」こと杉原千畝氏のユダヤ人難民の救済はあまりに有名だ。
第2次大戦下のリトアニアで領事代理を務めていた杉原氏は、1940年、ナチに迫害されるユダヤ人の求めに応じ、日本の通過ビザを発給した。外務省の許可を得られぬままの苦渋の決断だったが、杉原氏の英断で6000人を超えるユダヤ人が生き延びた。だが、帰国後の杉原氏を待ち受けていたのは辞職勧告。不遇な後半生を過ごし、日本政府による名誉回復がなされたのは92年。杉原氏は鬼籍に入っていた。しかし、イスラエル建国以来日本との関係が良好だったのは「日本のシンドラー」杉原氏のおかげによるものであったことは間違いない。
<ポーランドのシベリア孤児救出が生んだ善意の連鎖>
09年は日本とポーランドの国交樹立90周年記念。実はポーランドも知られざる親日国で、その理由もひとつではない。帝政ロシア時代にロシア軍に組み込まれ、第1次大戦で日本軍の捕虜となったポーランド人を手厚く遇したこと、杉原千畝氏が救った難民にユダヤ系ポーランド人が多く含まれていたことなどの影響が大きいが、もうひとつ、シベリアのポーランド孤児救済という史実がある。
ロシアなど3国に分割されたポーランドは、第1次大戦後に独立を回復したが、流刑地でもあったシベリアには10数万人のポーランド人が残され、しかも戦乱で親を失った孤児たちは飢餓と疫病で悲惨な状況にあった。
そんなとき、現地の社会活動家の要請に応えたのが日本政府と日本赤十字社で、1920年と22年の2度にわたって765人の孤児たちを日本に迎え入れ、祖国へ送り還したのである。
この話もポーランドではよく知られていたが、日本では90年代半ばに駐ポーランド大使を務めた兵藤長雄氏の著作『善意の架け橋 ポーランド魂とやまと心』(文藝春秋)によって、ようやく人々の知るところとなった。
その後、阪神・淡路大震災(95年)が起こると、ポーランドではかつてシベリア孤児たちが日本で慈しまれたように、震災の被災児らを自国に招いて慰めようという機運が起こり、96・97年の2度にわたって孤児の招待が実現した。これは、ポーランドの人たちが歴史を正しく伝えていたからこそ生まれた善意の連鎖である。
<インドネシアで語り継がれる日本植民地時代>
インドネシアは世界で最も日本人に好印象を持っている国だ。その理由は何か。
17世紀初頭からオランダの植民地となっていたインドネシア。当時、人口比で0・5%にすぎないオランダ人がインドネシアの全生産額の65%を収奪したといわれ、その額はオランダの国家予算の3分の1に匹敵するものだったという。
このオランダを駆逐したのが太平洋戦争の際の日本で、以後のインドネシアは日本の軍政下に入る。オランダを駆逐した日本は教育改革などを実施、わずか1年たらずで多くの子どもたちが学校に通えるようになった。そして45年8月15日、日本の降伏とともに独立を宣言したものの、日本の武装解除に乗じて、植民地支配を復活させようとするオランダ軍と熾烈な独立戦争を展開した。
4年5か月に及ぶ戦いの末、ようやく独立戦争を勝ち取ったが、実はこの戦いに2000人もの日本人が身を投じ、インドネシア独立の原動力となったのである。インドネシアの人々が抱く親日的感情の裏には、日本植民地時代の好印象と、独立戦争をともに戦ってくれた日本人義勇兵への感謝の気持ちが今も伝えられているからなのだ。
<ドイツ兵捕虜を「祖国のために戦った」と讚えた日本人将校>
年末の風物詩ベートーベンの『交響曲第九番』が日本で初めて演奏されたのは、1918年6月18日、徳島県板野郡板東町(現鳴門市)にあった『板東俘虜収容所』だ。
第1次世界大戦で日本に降伏したドイツ人捕虜を収容する施設のひとつだった板東俘虜収容所のドイツ人たちは、他の収容所とは異なり、自らの技術や芸術などを通じて地域の人々と親しくふれあい、音楽、演劇、出版、スポーツ活動などいわゆる『虜囚文化』を楽しむことができた。『第九』の初演はその一環であった。
故国から遠く離れた極東の地でドイツ兵が『俘虜文化』を開花させた陰には、収容所所長・松江豊寿(中佐)の存在があった。松江は「彼らも祖国のために戦った」というのが口癖で、軍の上層部からの度重なる批判にも屈せず、己の信念のまま捕虜たちと接し続けたのである。
戦争が終わり解放された捕虜のひとりは、収容所を離れるにあたり「あなたが示された寛容と博愛と仁慈の精神を私たちは決して忘れません。そしてもし私たちよりさらに不幸な人に会えば、あなたに示された精神で臨むでしょう」と松江に挨拶した。
ドイツ兵が去った板東では、古老たちがドイツ人たちの思い出を子どもたちに語り、各地域に散った元捕虜たちも板東での素晴らしい経験を周囲に語った。そして、50年以上も過ぎた72年、多くの元捕虜たちから寄付や資料の提供を受けて「鳴門市ドイツ館」が完成した。その後も生存者からの寄付が相次ぎ、ドイツ館運営の貴重な資産となった。
*
英国のBBC放送と米国のメリーランド大学による「世界によい影響を与えた国」はどこかという共同調査で、日本は3年連続1位だった。調査項目は政治、経済、安全保障の3つ。直近の調査では4位に落ちたが日本人が思っている以上に評価は高い。こうした立場を今後も維持できるか。
それは日本人が自身を客観的に見つめ、主体的に行動できるかどうかという意識改革の成否にかかっている。
世界から感謝される「人情の日本史」=四條たか子
(SAPIO 2009年7月8日号掲載) 2009年7月20日(月)配信
文=四條たか子(『世界が愛した日本』著者)
私たちは知っていただろうか。100年も前に日本から受けた恩を忘れずにいてくれる世界の国々のことを。そして、当時の日本人が一体どんな行動を示したのかを。日本の教科書には決して書かれない「善意の連鎖」を生んだ歴史を紹介しよう。
<95年前の日本の恩義を忘れなかったトルコ国民>
日本の「外交下手」を象徴するエピソードとして、湾岸戦争時に多国籍軍に総額135億ドルを出資しながら、まったく感謝されなかったという事実がある。
1990年8月から翌年1月にかけて10・10・20・90億ドルと小出しにし、為替相場の変動で目減りしたという理由で5億ドルを追加した顚末は、まさにその場しのぎ。これは冷戦後の外交戦略を描けていなかったというだけでなく、情報収集能力も状況判断力も、学習能力もないことを露呈した一例だ。
というのもこの戦争から遡ること5年、イラン・イラク戦争時にも、日本は情報不足と判断力の欠如から、多くの邦人がイラクに取り残されるという事態に陥った。そのとき自国民の脱出よりも日本人の救出を優先し、飛行機を飛ばしてくれたのがトルコだ。
いったいなぜ? その理由を知る日本人は1人もいなかった。しかしトルコの人たちは忘れてはいなかった。95年も前に熊野灘(和歌山県串本町沖)で難破したトルコの軍艦エルトゥールル号の生存者を救出し、故国に送り届けてくれた日本への感謝。それはトルコ国内では長く教科書で語り継がれて、タイムリミットギリギリの救出劇を生んだ。
ところがこの事実は日本ではすっかり風化し、忘れ去られていた。それどころか、トルコの行為は日本の経済協力を期待したものという論調が大勢を占めたのである。
<イスラエルの好日感情を支える「日本のシンドラー」>
日本も日本人も、実はけっこうやるじゃないか。そんなエピソードはいくつもある。たとえば「日本のシンドラー」こと杉原千畝氏のユダヤ人難民の救済はあまりに有名だ。
第2次大戦下のリトアニアで領事代理を務めていた杉原氏は、1940年、ナチに迫害されるユダヤ人の求めに応じ、日本の通過ビザを発給した。外務省の許可を得られぬままの苦渋の決断だったが、杉原氏の英断で6000人を超えるユダヤ人が生き延びた。だが、帰国後の杉原氏を待ち受けていたのは辞職勧告。不遇な後半生を過ごし、日本政府による名誉回復がなされたのは92年。杉原氏は鬼籍に入っていた。しかし、イスラエル建国以来日本との関係が良好だったのは「日本のシンドラー」杉原氏のおかげによるものであったことは間違いない。
<ポーランドのシベリア孤児救出が生んだ善意の連鎖>
09年は日本とポーランドの国交樹立90周年記念。実はポーランドも知られざる親日国で、その理由もひとつではない。帝政ロシア時代にロシア軍に組み込まれ、第1次大戦で日本軍の捕虜となったポーランド人を手厚く遇したこと、杉原千畝氏が救った難民にユダヤ系ポーランド人が多く含まれていたことなどの影響が大きいが、もうひとつ、シベリアのポーランド孤児救済という史実がある。
ロシアなど3国に分割されたポーランドは、第1次大戦後に独立を回復したが、流刑地でもあったシベリアには10数万人のポーランド人が残され、しかも戦乱で親を失った孤児たちは飢餓と疫病で悲惨な状況にあった。
そんなとき、現地の社会活動家の要請に応えたのが日本政府と日本赤十字社で、1920年と22年の2度にわたって765人の孤児たちを日本に迎え入れ、祖国へ送り還したのである。
この話もポーランドではよく知られていたが、日本では90年代半ばに駐ポーランド大使を務めた兵藤長雄氏の著作『善意の架け橋 ポーランド魂とやまと心』(文藝春秋)によって、ようやく人々の知るところとなった。
その後、阪神・淡路大震災(95年)が起こると、ポーランドではかつてシベリア孤児たちが日本で慈しまれたように、震災の被災児らを自国に招いて慰めようという機運が起こり、96・97年の2度にわたって孤児の招待が実現した。これは、ポーランドの人たちが歴史を正しく伝えていたからこそ生まれた善意の連鎖である。
<インドネシアで語り継がれる日本植民地時代>
インドネシアは世界で最も日本人に好印象を持っている国だ。その理由は何か。
17世紀初頭からオランダの植民地となっていたインドネシア。当時、人口比で0・5%にすぎないオランダ人がインドネシアの全生産額の65%を収奪したといわれ、その額はオランダの国家予算の3分の1に匹敵するものだったという。
このオランダを駆逐したのが太平洋戦争の際の日本で、以後のインドネシアは日本の軍政下に入る。オランダを駆逐した日本は教育改革などを実施、わずか1年たらずで多くの子どもたちが学校に通えるようになった。そして45年8月15日、日本の降伏とともに独立を宣言したものの、日本の武装解除に乗じて、植民地支配を復活させようとするオランダ軍と熾烈な独立戦争を展開した。
4年5か月に及ぶ戦いの末、ようやく独立戦争を勝ち取ったが、実はこの戦いに2000人もの日本人が身を投じ、インドネシア独立の原動力となったのである。インドネシアの人々が抱く親日的感情の裏には、日本植民地時代の好印象と、独立戦争をともに戦ってくれた日本人義勇兵への感謝の気持ちが今も伝えられているからなのだ。
<ドイツ兵捕虜を「祖国のために戦った」と讚えた日本人将校>
年末の風物詩ベートーベンの『交響曲第九番』が日本で初めて演奏されたのは、1918年6月18日、徳島県板野郡板東町(現鳴門市)にあった『板東俘虜収容所』だ。
第1次世界大戦で日本に降伏したドイツ人捕虜を収容する施設のひとつだった板東俘虜収容所のドイツ人たちは、他の収容所とは異なり、自らの技術や芸術などを通じて地域の人々と親しくふれあい、音楽、演劇、出版、スポーツ活動などいわゆる『虜囚文化』を楽しむことができた。『第九』の初演はその一環であった。
故国から遠く離れた極東の地でドイツ兵が『俘虜文化』を開花させた陰には、収容所所長・松江豊寿(中佐)の存在があった。松江は「彼らも祖国のために戦った」というのが口癖で、軍の上層部からの度重なる批判にも屈せず、己の信念のまま捕虜たちと接し続けたのである。
戦争が終わり解放された捕虜のひとりは、収容所を離れるにあたり「あなたが示された寛容と博愛と仁慈の精神を私たちは決して忘れません。そしてもし私たちよりさらに不幸な人に会えば、あなたに示された精神で臨むでしょう」と松江に挨拶した。
ドイツ兵が去った板東では、古老たちがドイツ人たちの思い出を子どもたちに語り、各地域に散った元捕虜たちも板東での素晴らしい経験を周囲に語った。そして、50年以上も過ぎた72年、多くの元捕虜たちから寄付や資料の提供を受けて「鳴門市ドイツ館」が完成した。その後も生存者からの寄付が相次ぎ、ドイツ館運営の貴重な資産となった。
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英国のBBC放送と米国のメリーランド大学による「世界によい影響を与えた国」はどこかという共同調査で、日本は3年連続1位だった。調査項目は政治、経済、安全保障の3つ。直近の調査では4位に落ちたが日本人が思っている以上に評価は高い。こうした立場を今後も維持できるか。
それは日本人が自身を客観的に見つめ、主体的に行動できるかどうかという意識改革の成否にかかっている。
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