聯合艦隊浮上ス!!(5) [日本海軍]
「呉らしく?「紫電改」のイルミネーション
2009年12月5日(土)17時51分配信 読売新聞
暗闇の中に浮かび上がった紫電改(広島県呉市で)
発光ダイオード(LED)で彩られた旧海軍の戦闘機「紫電改」や戦艦「大和」のオブジェが広島県呉市中央の蔵本通りの一角に登場し、暗闇の中に幻想的に浮かび上がっている。
ライトアップ行事「イルミネーションロードくれ」の目玉で、紫電改は実物大の全長9・3メートル。2万4000個のLEDが使われている。昨冬に続き2度目の展示となる大和は20分の1スケール(全長13メートル)で1万3000個のLEDで飾られている。
いずれも戦中に呉市で製造されていたことから、呉商工会議所などで作る実行委が「呉の歴史を伝えたい」と企画・製作した。
市民らから募ったサンタやトナカイなどのオブジェに囲まれた紫電改は、おもちゃの世界を飛んでいるようで、訪れた人たちの注目を集めている。ライトアップは午後5時~11時。来年1月3日まで。」
<紫電改しでんかい>
この紫電改は、南宇和郡城辺じょうへん町久良ひさよし、長崎鼻ながさきばな約2百メートルの海底 41メートルのところに眠っていたが、昭和53年11月城辺マリンクラブ会員によって確認された。
愛媛県は、機体を引き揚げ、慰霊の誠を捧げ、恒久平和を祈念することとした。
「紫電改」は、当時最も優れた局地戦闘機「紫電21型」で、その全容は、
全長9.34メートル
主翼11.99メートル
高さ3.9メートル
装備重量4.86トン
時速620キロメートル
エンジン2千馬力
20ミリ機銃4門
を備え、独特の自動空戦フラップを駆使できる海軍航空の掉尾ちょうびを飾る優秀な戦闘機であった。
この「紫電改」は、旧第343海軍航空隊に配属され、昭和20年7月豊後水道ぶんごすいどう上空で空戦したなかの1機であると言われている。
県から委託を受けた藤田海事工業株式会社は、地元漁業関係者等の協力を得て、昭和54年7月14日引き揚げた。
機体は全面フジツボに覆われ、破損箇所も見受けられたが、原形をとどめていた。
県は、紫電改の製作に当たった旧川西航空機株式会社、現新明和工業株式会社航空機製作所に委託し、一部補修、防錆塗装を行った。
終えんの地、久良湾が望見できるここ南予レクリエーション第3号都市公園内に、永久保存する。
<戦艦「大和」>
戦艦「大和」は、艦隊決戦の切り札となるべく、昭和12年11月4日に呉海軍工廠において起工された。大和は対米英開戦直後の昭和16年12月16日に海軍に引き渡されて竣工、第一戦隊に編入された。昭和17年2月には、これまで12年間にわたり連合艦隊の旗艦を務めた「長門」から旗艦の地位を譲り受け山本五十六長官の将旗を掲げる事となった。
太平洋戦争が始まり、日本は破竹の進撃を続けたわけであるが、その間大和は瀬戸内海の柱島基地において訓練に励んでいた。その後太平洋戦争の天王山とも呼ばれるミッドウェイ海戦に参加した。昭和17年6月5日に海戦が始まったが、南雲艦隊は「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4隻の航空母艦を失い、大敗北となった。その時大和は戦場から300海里も離れており、応援のすべもなく、柱島基地に帰投した。
昭和18年8月、戦場はソロモン海域に移り、大和も南方戦線の最大拠点であるトラック島に進出した。その後戦局は悪化していき、昭和18年2月に大和は旗艦の座を二号艦の「武蔵」に譲ることとなった。その間大和はトラック島と日本を何度か往復したが、出撃の機会は訪れなかった。昭和18年12月に大和は米潜水艦スケートの雷撃を受け、魚雷1本が右舷に命中、初めて損傷を被り、呉海軍工廠にて修理と共に高角砲、機銃の増設等の改装工事が行われた。
修理を終えた大和はリンガ泊地に進出し、米軍のサイパン侵攻に備えた。そして昭和19年6月11日から米機動部隊によるサイパン空襲が行われたことから救援に行き、昭和19年6月19日、マリアナ沖海戦となる。この時初めて大和の主砲は実戦で火を噴いたのである。目標は敵艦船ではなく、敵艦載機で27発(3斉射)を撃ったにすぎなかった。
その後大和は、昭和19年10月23日のレイテ沖海戦に参加した。24日大和はシブヤン海域において米艦載機の攻撃を受け、主砲31発を発射するが、爆弾一発が命中した。翌25日、サマール沖で偶然敵護衛空母艦隊に出くわし、敵空母に向かって3式通常弾24発、徹甲弾100発の主砲を発射し、敵空母に損傷を与えた。これが水上艦船に対する最初で最後の大和の主砲攻撃となった。この海戦において日本海軍は「武蔵」他多数の艦船を失い、連合艦隊は事実上壊滅した。
大和はその後日本に戻ったが、昭和20年4月1日に米軍が沖縄上陸した事から水上特攻部隊として出撃し、生還を望まない攻撃に出発した。大和は昭和20年4月6日に出撃したが、翌7日に米艦載機386機による波状攻撃を受け、爆弾6発、魚雷10本以上を受け、午後2時23分、九州坊ノ岬沖90海里の地点で2498名の乗組員と共に海底深く沈没したのである。この時の主砲は27発しか発射されなかった。
私は熱烈なる日本海軍ファンなので、行ってみたいです。
2009年12月5日(土)17時51分配信 読売新聞
暗闇の中に浮かび上がった紫電改(広島県呉市で)
発光ダイオード(LED)で彩られた旧海軍の戦闘機「紫電改」や戦艦「大和」のオブジェが広島県呉市中央の蔵本通りの一角に登場し、暗闇の中に幻想的に浮かび上がっている。
ライトアップ行事「イルミネーションロードくれ」の目玉で、紫電改は実物大の全長9・3メートル。2万4000個のLEDが使われている。昨冬に続き2度目の展示となる大和は20分の1スケール(全長13メートル)で1万3000個のLEDで飾られている。
いずれも戦中に呉市で製造されていたことから、呉商工会議所などで作る実行委が「呉の歴史を伝えたい」と企画・製作した。
市民らから募ったサンタやトナカイなどのオブジェに囲まれた紫電改は、おもちゃの世界を飛んでいるようで、訪れた人たちの注目を集めている。ライトアップは午後5時~11時。来年1月3日まで。」
<紫電改しでんかい>
この紫電改は、南宇和郡城辺じょうへん町久良ひさよし、長崎鼻ながさきばな約2百メートルの海底 41メートルのところに眠っていたが、昭和53年11月城辺マリンクラブ会員によって確認された。
愛媛県は、機体を引き揚げ、慰霊の誠を捧げ、恒久平和を祈念することとした。
「紫電改」は、当時最も優れた局地戦闘機「紫電21型」で、その全容は、
全長9.34メートル
主翼11.99メートル
高さ3.9メートル
装備重量4.86トン
時速620キロメートル
エンジン2千馬力
20ミリ機銃4門
を備え、独特の自動空戦フラップを駆使できる海軍航空の掉尾ちょうびを飾る優秀な戦闘機であった。
この「紫電改」は、旧第343海軍航空隊に配属され、昭和20年7月豊後水道ぶんごすいどう上空で空戦したなかの1機であると言われている。
県から委託を受けた藤田海事工業株式会社は、地元漁業関係者等の協力を得て、昭和54年7月14日引き揚げた。
機体は全面フジツボに覆われ、破損箇所も見受けられたが、原形をとどめていた。
県は、紫電改の製作に当たった旧川西航空機株式会社、現新明和工業株式会社航空機製作所に委託し、一部補修、防錆塗装を行った。
終えんの地、久良湾が望見できるここ南予レクリエーション第3号都市公園内に、永久保存する。
<戦艦「大和」>
戦艦「大和」は、艦隊決戦の切り札となるべく、昭和12年11月4日に呉海軍工廠において起工された。大和は対米英開戦直後の昭和16年12月16日に海軍に引き渡されて竣工、第一戦隊に編入された。昭和17年2月には、これまで12年間にわたり連合艦隊の旗艦を務めた「長門」から旗艦の地位を譲り受け山本五十六長官の将旗を掲げる事となった。
太平洋戦争が始まり、日本は破竹の進撃を続けたわけであるが、その間大和は瀬戸内海の柱島基地において訓練に励んでいた。その後太平洋戦争の天王山とも呼ばれるミッドウェイ海戦に参加した。昭和17年6月5日に海戦が始まったが、南雲艦隊は「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4隻の航空母艦を失い、大敗北となった。その時大和は戦場から300海里も離れており、応援のすべもなく、柱島基地に帰投した。
昭和18年8月、戦場はソロモン海域に移り、大和も南方戦線の最大拠点であるトラック島に進出した。その後戦局は悪化していき、昭和18年2月に大和は旗艦の座を二号艦の「武蔵」に譲ることとなった。その間大和はトラック島と日本を何度か往復したが、出撃の機会は訪れなかった。昭和18年12月に大和は米潜水艦スケートの雷撃を受け、魚雷1本が右舷に命中、初めて損傷を被り、呉海軍工廠にて修理と共に高角砲、機銃の増設等の改装工事が行われた。
修理を終えた大和はリンガ泊地に進出し、米軍のサイパン侵攻に備えた。そして昭和19年6月11日から米機動部隊によるサイパン空襲が行われたことから救援に行き、昭和19年6月19日、マリアナ沖海戦となる。この時初めて大和の主砲は実戦で火を噴いたのである。目標は敵艦船ではなく、敵艦載機で27発(3斉射)を撃ったにすぎなかった。
その後大和は、昭和19年10月23日のレイテ沖海戦に参加した。24日大和はシブヤン海域において米艦載機の攻撃を受け、主砲31発を発射するが、爆弾一発が命中した。翌25日、サマール沖で偶然敵護衛空母艦隊に出くわし、敵空母に向かって3式通常弾24発、徹甲弾100発の主砲を発射し、敵空母に損傷を与えた。これが水上艦船に対する最初で最後の大和の主砲攻撃となった。この海戦において日本海軍は「武蔵」他多数の艦船を失い、連合艦隊は事実上壊滅した。
大和はその後日本に戻ったが、昭和20年4月1日に米軍が沖縄上陸した事から水上特攻部隊として出撃し、生還を望まない攻撃に出発した。大和は昭和20年4月6日に出撃したが、翌7日に米艦載機386機による波状攻撃を受け、爆弾6発、魚雷10本以上を受け、午後2時23分、九州坊ノ岬沖90海里の地点で2498名の乗組員と共に海底深く沈没したのである。この時の主砲は27発しか発射されなかった。
私は熱烈なる日本海軍ファンなので、行ってみたいです。
最後の戦闘機 紫電改―起死回生に賭けた男たちの戦い (光人社NF文庫)
- 作者: 碇 義朗
- 出版社/メーカー: 光人社
- 発売日: 2006/12
- メディア: 単行本
局地戦闘機紫電改―海軍航空の終焉を飾った傑作機の生涯 (〈歴史群像〉太平洋戦史シリーズ (24))
- 作者:
- 出版社/メーカー: 学研
- 発売日: 2000/01
- メディア: 単行本
日本海軍艦艇写真集・別巻 戦艦大和・武蔵 (呉市海事歴史科学館図録―日本海軍艦艇写真集別巻)
- 作者:
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2005/04/15
- メディア: 大型本
戦艦「大和」開発物語―最強戦艦誕生に秘められたプロセス (光人社NF文庫)
- 作者: 松本 喜太郎
- 出版社/メーカー: 光人社
- 発売日: 2009/07
- メディア: 文庫
戦艦大和誕生〈上〉西島技術大佐の未公開記録 (講談社プラスアルファ文庫)
- 作者: 前間 孝則
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1999/12
- メディア: 文庫
戦艦大和誕生〈下〉「生産大国日本」の源流 (講談社プラスアルファ文庫)
- 作者: 前間 孝則
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1999/12
- メディア: 文庫
戦艦大和の最後―一高角砲員の苛酷なる原体験 (光人社NF文庫)
- 作者: 坪井 平次
- 出版社/メーカー: 光人社
- 発売日: 2005/03
- メディア: 文庫
タグ:日本海軍
だいぶ前ですが(当然イルミネーションのない頃)、一度だけ呉に行ったことがあります。戦艦大和の映画のセットあった頃だから、2006年3月くらいですね。一緒に大和ミュージアムも見に行ったことを思い出しました。
写真はカラーですが、公試運転中の大和ですよね。
日本海軍の戦艦ではやはり大和が好きですが、航空母艦だと瑞鶴、赤城、飛竜等が好きです。
by ロック (2009-12-06 20:57)
ロックさん、nice!&ご訪問&コメントどうも有難う御座います。
私も戦艦はやはり『大和・武蔵』ですが、私が小学校の時、初めて本の写真で見た戦艦は『扶桑』でした(笑)。それ以来、日本海軍のファンです。空母はやはり、幸運艦の『瑞鶴』ですかね。
by gaiagear (2009-12-06 22:14)